福田 利光 (明治45年〜平成13年 朝倉中学第18回卒 故人)
地元紙であり、西日本のブロック紙である西日本新聞社には社長の福田利光(朝中18回生)代表取締役専務の井手純二(朝中20回生)の経営トップをはじめ朝中、朝校卒業生がひしめいている。
社長の福田は早大政経科を卒業した翌年の昭和12年、西日本新聞社の前身、福岡日日新聞社へ入った。「実は“電力の鬼”といわれた松永安左エ門さんが当時、社長だった東邦電力に一年間お世話になったのだが、どうしても新聞記者になりたかった。だから親には黙って…」という。
あこがれの記者となった福田は、入社後間もなく従軍記者として広い中国大陸を駆け回っている。そのとき朝中時代、軍事教練で鍛われた野副昌徳中佐と出会ったのがいい思い出。「野副さんは歩兵連隊長として南京攻略に参戦していた。杭州近くの田舎町でバッタリ。桃の花が咲いていたなあ。民家の土間で一晩、語り明かしたよ。」
しかし新聞社では取材前線より、新聞編集の整理部が長かった。編集局長、東京支社長を経て36年取締役、46年に社長となる。西日本新聞民生事業団理事長、やすらぎ荘理事長、小さな親切運動会長など社会福祉事業に積極的で、多忙な毎日だ。
その福田は、三井郡大城村の出身。朝中へは当時“三井のチンチン電車”と呼ばれた西鉄甘木線で通学したが「電車は一両だけ、箱の前の方が中学生、後ろが朝倉高女の女学生と決まっていた。付け文したりする者はなかったなあ」。“付け文”とは今でいうラブレターのこと。またバンカラ全盛の時代だった。
以上、昭和54年刊「朝倉中学・高校物語−朝中原林」(長野敏樹著)より。
明治45年(1912) 7月 6日生
昭和 5年(1930) 3月 福岡県立朝倉中学卒業
昭和 9年(1934) 3月 早稲田大学卒業
4月 東邦電力に入社
昭和12年(1937) 1月 福岡日日新聞社入社
昭和13年(1938) 3月 上海特派員として渡航
昭和18年(1943) 4月 西日本新聞社設立
昭和28年(1953) 8月 西日本新聞社編集局長
昭和33年(1958) 7月 東京支社長
昭和45年(1970)10月 西日本新聞社代表取締役社長
昭和50年(1975) 9月 社会福祉法人夜須高原「やすらぎ荘」理事長
昭和54年(1979) 6月 テレビ西日本代表取締役会長
昭和60年(1985) 6月 西日本新聞社代表取締役会長
昭和62年(1987) 4月 勲一等瑞宝章受章
平成 3年(1991) 6月 西日本新聞社代表取締役相談役
平成 5年(1993)10月 新聞文化賞受賞
「平成5年の夏に私は、西日本新聞社の代表取締役相談役の代表権を返上して、現役を退き、相談役になった。その秋、新潟での日本新聞協会大会で、新聞文化賞を受けた。協会としては4年ぶりの文化賞で、私は昭和26年の第1回以来18人目の受章というので、大変光栄に思った。こんなことを言うのはどうかと思うが、新聞人としては、先の勲一等よりも感慨深い受賞と思った。…自分自身、たいした功績が有るとも思っていないし、一面では面はゆい気もしたが、福岡日日新聞社に入って56年間、新聞一本で、ただひたすら菊竹六皷さんの化戒訓を守ってきたことが、よかったのだろうと思っている。」
『青山不老』より
平成 元年~12年 福岡朝倉会会長
平成 5年〜11年 朝倉会(朝倉高校同窓会)会長
平成 13年(2001) 11月29日逝去
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