後藤 明生     (昭和7年〜平成11年 朝倉高校第4回卒 故人)


  朝倉は文学界に多くの人材を輩出している。既出の野田宇太郎をはじめとして、緒方隆士(明治38年〜昭和13年。中学第13回卒、「虹と鎖」「島での七日」で第3回芥川賞候補)、古賀剛(中学第21回卒、「漂着物」で河出書房長編小説賞)、飯田栄彦(高校第15回卒、『燃えながら飛んだよ!』講談社児童文学新人賞、1975年『飛べよ、トミー!』野間児童文芸賞推奨作品賞、1986年『昔、そこに森があった』第26回日本児童文学者協会賞を受賞。現在、純真女子短期大学客員教授)等、枚挙に暇がないが、野田宇太郎が優れた詩人であったと同時に優れた編集者であったように、文学界で優れた足跡を残しつつまた他方面でも大きな業績を残した作家に、後藤明生がいる。

 

 後藤明生は昭和74月、朝鮮咸鏡南道永興郡で生を受けた。曾祖父が朝倉村から宮大工として朝鮮へ出かけ、父は後藤規矩次商店を経営していた。昭和208月敗戦と同時に“生まれ故郷”はあっという間に“外国”となった。この植民地における経験は、“楕円論”の原体験としてその後の後藤の世界観を構成することとなる。昭和21年に十日間歩いて38度線を越境するが、それまで、花山里の農家で冬を過ごすこととなる。その間、父と祖母が相次いで亡くなり、花山里に埋葬した。5月、甘木市に引き揚げ福岡県立朝倉中学に編入する。後藤は引き揚げ後、母方の祖母が住んでいた甘木で暮らし始めるが、父の出身地である朝倉町(後藤の本籍地)は「植民地暮らしの日本人にとって、本籍地は日本人の証明だった。・・・私は朝倉の地をまだ見たことのない小学生だった。・・・永興と朝倉は真直ぐつながっていた。永興にいたわたしには朝倉が是非とも必要だった。日本人であるために、なくてはならない場所だった。」(「綾の鼓」昭和52<>新年号)のである。

 朝倉中学に編入後、後藤は野球部に入部。しかし「理由ははっきりとはしないが」「ある日、野球というものが面白くなくなって、小説というものが面白くなり」野球部を退部。「戦後、本はほとんどありませんでしたが、ただ、幸いなことに、叔母の家に沢山の本がありましたので、その中から芥川龍之介全集を見つけまして、一巻から最後の十何巻かまで読んで・・・・それが、私と文学の出会いで」(昭和54年 朝倉高校70周年記念講演)と語っている。当時、後藤の読書量は相当のものであったようで、「このころは、ずいぶん沢山読みました。ひどいときは学校へ行くとき、鞄に小説を二冊入れて行き、授業中も読み続け、家に帰ってからまた一冊読む」ほどであり、後に「高校生時代には、題名も作者名も忘れてしまうほど、どんどんと読めるかぎり読み、忘れるかぎり忘れるということを、私は奨励したい」と「濫読のすすめ」を語っている。(昭和51年 鹿児島県牧園高校 講演会)。エネルギッシュな後藤らしい読書観である。平成の現代にこそ求められる姿勢ではないだろうか。そのような環境の中で文学的素養を高めた後藤であるが、朝倉高校にとっては欠かせないエピソードが二つある。一つは、同級生の中山幹雄(比良松 書店経営)、香月栄輔(広島市、故人)、武田温(杷木町、故人)らと文芸部でガリ版刷りの機関誌「樹」を創刊したことである。この「樹」は現在も文芸部の機関誌として発行されており、今年(平成23年)第67号となっている。二つ目は後藤が朝倉高校2年生の時、学生歌の歌詞募集に当選したことである。「耳納の山の朝明けや」で始まる朝倉高校学生歌は今でも生徒が声高らかに歌い、彼らの青春を形成しているのである。

 後藤は、昭和27年朝倉高校を卒業するが、同期生には優れた人材が多い。彼らは27会という同窓会を組織し、齢80に手が届こうかとする現在でも年一回の同窓会を元気に開催している。その同窓生の中に、後藤の親友、根本郁芳(根本特殊化学会長)がいる。彼の後藤に係る思い出を次のように語っている。

「・・彼も早稲田大学を受験すると言うので、甘木駅(当時国鉄)で待ち合わせて一緒に上京する約束をした。彼は汽車の出発時間の間際に高下駄を引きずりながらやってきて、「俺は行けんごとなった。」と言って帰ってしまった。その時の高下駄を引きずる音は今でも聞こえてくる。お互い幼くして父親を亡くしていたので、貧乏であった。私はかろうじて親戚からの借金で受験費用を用意できたが、彼は用意できなかったのである。」昭和の青春という哀愁の香りと若者の力が濃密に詰まったエピソードである。彼らの付き合いは後々まで続くことになる。

 後藤は、一年後、早稲田大学第二文学部露西亜文学科に入学。昭和30年には同人誌「新早稲田文学」を組織し、本格的な文学活動が始まる。その後の活躍については、諸文献に詳しいので割愛するが、博報堂や平凡社に勤務する傍ら活発な創作活動を展開し、昭和42年に第57回芥川賞候補となる。以後4回受賞候補に挙げられるも残念ながら受賞はならなかった。昭和52年「夢かたり」により第5回平林たい子文学賞を受賞。また昭和56年には「吉野太夫」により第17回谷崎潤一郎賞を受賞する等その地位は揺るぎないものとなった。

 こうした作家活動の一方、後藤は昭和63年に近畿大学文芸部教授に就任し、その後大学院開設に奔走することになる。平成6年近畿大学大学院文芸学研究科開設に伴い大学院文芸学研究科長に就任し、また平成9年には近畿大学理事にする。その間も数々の作品を発表し、今後の一層の活躍が期待されたが、平成11年病を得、67才で帰らぬ人となった。

 

 朝倉高校は平成24年から新校舎の改築が始まる。時は移り、学舎が変わろうと、生徒たちの心にはいつも学生歌の精神が宿っているはずである。


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