『 幻の故郷 』 

後藤明生



  三月のはじめ頃、久しぶりに朝倉の地を訪れた。いったい何年ぶりだろうか、と思い出してみるが、なかなかわからない。

 わたしが朝倉高校を出たのは昭和二十七年である。ちょうど戦後の学制改革の時期で、旧制の朝中が新制の朝高になり、わたしたちは、ずるずると同じ学校に六年間通った。

 そのあとは東京へ出て、早稲田に入り、そのままずっとこちら暮しであるが、本籍地だけは旧朝倉村恵蘇宿においている。最近は、本籍地を現住所に移す方が何かと便利なようだ。例えば、海外旅行をするにも、戸籍抄本を取り寄せるのに、遠くては時間がかかる。しかし、わたしが朝倉の本籍を変えたくないのは、そこが幻の故郷だからである。

 わたしは常に、朝倉の地を遠く離れて暮してきた。生れたのは、北朝鮮の(えいこう)という町である。ここは、李朝の始祖である李成桂の生まれた古い町であるが、戦後引揚げて来てからは、朝中、朝高の六年間ずっと甘木で暮した。引揚げの途中、父が死亡したので、甘木の母方の親戚のところへ帰ったのである。

 そんなわけで、直接、朝倉で暮したことはなかった。しかしヨソンシュクのことは、朝鮮にいた子供の頃から、よく聞かされていた。「秋の田の史蹟」のことは、地元の人で知らぬものはいないと思うが、亡くなった祖母もそれが自慢だった。お蔭で、百人一首冒頭の天智天皇の歌は、まだ字が読めないうちから暗記していた。

 今回の三月の旅行のきっかけになったのは、一枚の写真である。確か昨年のいま頃だったと思うが、東京朝倉会の会長をされている後藤信夫さんから、一枚の写真と「蘇峯の噴煙―露営日記」というノートがひょっこり送られて来た。

 写真は、大正九年のもので、若者が四人わさな橋の欄干に腰かけている。浴衣がけにカンカン帽をかぶった三人が、後藤信夫、後藤均(元町長)、それにわたしの父後藤規矩次で、熊本五高の帽子をかぶっているのが竹井弥七郎だという。四人は小学校友達だったのである。

 また「露営日記」の方は、後藤信夫、後藤均と私の父三名の、無銭旅行式阿蘇登山記で父が朝中の四年生のときらしかった。竹井氏は何かの都合で行けなかったらしい。

 写真の橋のうしろには、大きな楠の木が写っていた。同封された手紙には、四人のうち三人はすでに死亡、自分だけが生き残って八十歳になっている、と書いてあった。その写真を眺めているうちに、どうしても朝倉へ行ってみたくなったのである。たまたま、広島と長崎へ仕事で出かける機会があった。それで、長崎の用を済ませたあと、杷木の武田温に電話すると、原鶴温泉で待っているという。

 行ってみると、武田と中山幹雄(中山盛文堂)が待っていた。早速、湯に入り、上がって飲んでいると、杉健児(眼科医)と従弟の山崎卓(九大助教授)があらわれた。博多からタクシーをとばして来たのだという。

 武田、中山、杉、山崎、四人とも朝中、朝高の同期である。飲んでいるうちに、朝倉に来たのは、武田温の結婚式のとき以来ではなかろうかと、思い出した。とすると、二十何年ぶりなのかも知れない。その晩わたしは原鶴温泉に泊めてもらい、他の者は帰った。杉と山崎は、夜中にまたタクシーで博多まで戻ったのである。

 翌日は朝倉町役場へでかけて藤原町長と林公民館長にお目にかかった。有難かったのは、そこで「朝倉紀聞」を見せてもらったことである。元禄十六年に書かれたもので、「筑前国続風土記」の著者、貝原益軒の序文がついている。

 そのあと林氏の案内で史蹟めぐりをした。車の運転は中山がやってくれた。後藤信夫さんから送ってもらった写真に写っている橋は、隠家森(かくれがもり)橋らしい。うしろの大楠も見物した。水車も珍しかったが、桂川べりの(こうのき)公園が、謡曲「(あやのつづみ)」の舞台だったことは、はじめて知った。

 このあたりのことは、そのうち一度、是非、小説に書きたいと思っている。(了)


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