緒方 久一郎     (明治34年〜昭和63年 朝倉中学第6回卒 故人)
 

 「嘉太櫨(かたろ)なくして無元なし、無元なくして嘉太櫨なし…」といわれたホトトギス派俳人の“嘉太櫨”こと上野嘉弥太(朝中2回生)と、“無元”こと緒方久一郎(朝中6回生)は、俳句を一生の友としてきた。

 二人の親交は卒業後に始まる。嘉弥太は大正3年、中学を出ると同時に木ろう製造業、質屋経営の家業を継いだ。一方の久一郎は朝倉郡で一、二を争う素封家「竹屋」の質屋家業をこれまた継承。「狭い町内で同じ質屋をやっていて行き来するうち、嘉太櫨から勧められましね。…すっかり、のぼせてしまったですわ」と嘉弥太がいない今、そもそものいきさつを振り返って久一郎はしんみり。

 久一郎に先立つこと一年、嘉弥太も知人の感化から吉岡禅寺洞主宰の「天の川」へ投句を始めた。その嘉弥太に引きずられて久一郎も「天の川」に入ってきた。それからの二人は、“表裏一体”。

 間もなく師の禅寺洞が自由律俳句へと走ったことで「性に合わん」と二人そろって一時、作句をストップすれば、33年に虚子の推薦でホトトギス派同人になったのも一緒。「炎暑妻如菩薩となり夜叉となり」嘉弥太の句がひょうきんなのに対し、久一郎は「考えている間に消えて秋の空」と叙情的な写生句が得意で、作風はまったく違っていたが…

 それはそうと、若いころの久一郎は日蓮主義運動に参加したり、明治天皇の精神に戻って国勢を振興させようと、明治会朝倉支部を結成(昭和7年11月)して飛行機からビラをまいたり、その派手な行動が今でも地元で語り草。「物好きで…。決して過激な運動じゃなかったけれど、それで公職追放をくらって…」と久一郎。追放解除後は甘木町議、町教育委員長、甘木市商工会会頭、市信用組合長と地元での主な公職はほとんど歴任した。

 しかし、久一郎の真骨頂はやはり文化面での活動だろう。儒者の遺墨収集は趣味の域を越え、緒方コレクションといえばこの道では日本一の折り紙さえ付く。古賀益城編「あさくら物語」を喜寿祝いで出版したり、丸山公園忠霊塔前の宮崎湖処子「おもい子」の碑建立と、こと文化事業に関しては金を惜しまず、38年には母校に当時の日本で9番目の天文台を“無元天文台”と名付けてプレゼントしている。

 

以上、昭和54年刊「朝倉中学・高校物語−朝中原林」(長野敏樹著)より。

 

       曝書番して舊臣の二三人    (秋月郷土館句碑)

       銀杏ちる屋根さながらに花御堂 (甘木安長寺句碑)

 

明治34年(1901) 1月10日生 

大正 7年(1918) 3月 福岡県立朝倉中学卒業

昭和33年(1958) 3月 紺綬褒章授与

            4月 甘木公園・秋月城址に高浜虚子句碑建立

6月 飾版授与

           12月 ホトトギス同人

昭和35年(1960)11月 句文集「あさくら」発刊   

昭和36年(1961) 1月 福岡県立朝倉高等学校に天文台寄贈

            2月 俳人往来録発刊

昭和40年(1965) 3月 選集「あさくら」発刊

昭和55年(1980) 3月 夫婦句集「花葵」発刊

昭和63年(1988) 3月 逝去

       

  昭和56年〜昭和59年 第八代 同窓会会長



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