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 野田 宇太郎     (明治42年〜昭和59年 朝倉中学第16回卒 故人)


 野田宇太郎は明治42年に三井郡立石村に生まれ、詩人として優れた実績を残すとともに、編集者としても大いにその才を発揮した人物である。

 

野田宇太郎には“剛”のイメージがある。戦時下にあって、文芸雑誌「文藝」の編集長(河出書房になってからの初代編集長)として軍部の圧力に立ち向かったであろう姿を想像するに難くないエピソードがある。

彼は卓球部であったが、朝倉中学時代の思い出をこう語っている。

「そうそう。ピンポン部を創設してね。富田英一(中学第16回卒 元甘木市長 医師 故人)と二人で佐賀まで試合に行った。高校生を相手に準々決勝まで進んだが、富田に“もう、負けろ”とそそのかして・・・・・。その分、佐賀見物させてもらった。」

「それでね、中学生の僕が天下の五高生を叱ったことがあるんだ。何かの大会の時、五高生が御法度のげたでトラックに入ったから“ダメだッ、ダメだッ、”って大声でね。」

野田宇太郎のイメージを形成する逸話である。因みに、野田や富田が創った卓球部は昭和29月県下の中学校に先駆けて発足しており、数々の大会で優秀な成績を収めている。  

「中学生で僕等にかなう者はいなかった。」という野田の自慢話もうなずける。

 

野田宇太郎は新古典主義的抒情詩人としての活躍の他に、文芸雑誌「文藝」の編集長としての優れた側面を有する。また「文学散歩」の元祖で知られる野田宇太郎のその文学的素養は、朝倉中学で既に萌芽している。

「松崎(野田の出身地:立石村松崎)の生徒は“桜朝会(筑後地区から通学した朝中生の親交会の名)”のメンバーでね。1年か2年の時、この会誌に載せた作文が先生にうんとほめられたねぇ。“コマの行方”っていう題だったよ。親父がかわいがっていたイヌが古井戸に落ち込み、行方不明だったが、無事に助かったというお話だ。」

野田が文学への芽をはっきりと意識した瞬間であったという。

野田は実は中学2年を二度やっている。

「つまり、落第。肋膜にかかったせいだが、先生から“落第と思うな。勉強を二度やるんだ”と励まされ、なんとなくうれしくなったよ。」

その先生というのは、東京帝大出身の英語教諭、滝口智(大正12年〜昭和2年在職、故人)。この滝口が映画ファンであったことから、野田は旧三井郡出身の後輩である樋口健太郎(中学第16回卒、福岡大医学部初代部長、故人)とともに博多へたびたび映画見物に出かけたという。「中学時代という、人生で大切な時期」(野田)に野田はのちにつながる豊かな感性を醸成していたのであろう。

昭和33月に朝倉中学を卒業した野田宇太郎は早稲田第一高等学院英文科に進むが

病を得て中退。帰京後、久留米市在住時代の昭和5年に丸山豊等の青年詩人達と知り合い、創作活動を活発化させる。昭和8年「北の部屋」を発行、その後「菫歌」等を送り出した。昭和11年には詩誌「糧」を刊行する等、野田宇太郎はこの頃から詩人としての際だった才を発揮する。昭和15年上京して雑誌「新風土記」の編集者として活躍するとともに、昭和17年「旅愁」を出版し高い評価を得た。昭和51年には、「日本耽美派文学の誕生」で芸術選奨文部大臣賞を受賞、野田宇太郎の名を確たるものとした。

 

 朝倉高等学校校歌は昭和29年に制定された。作詞者は野田宇太郎である。

 校歌の一節に「櫨色づけば くれなゐの力つねに一原 その熱をもて自ら治め 学ばなむ 共に」とある。

青春の時代は短く、また悩み多き年月であるが、だからこそ、天は若者に限りない情熱を与え、確かな成長を約束する。「秋に色づく櫨のような真っ赤な情熱で多くの困難を乗り越え、若者たちよ、大きく成長せよ」と野田宇太郎は後輩達を励ましているのではないだろうか。

この校歌は今でも、学生歌とともに朝倉高校の生徒たちに愛され、野田宇太郎の学んだ校舎に響き渡っている。

                             文責 松



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